津原泰水 『綺譚集』 (創元推理文庫)

綺譚集 (創元推理文庫)

綺譚集 (創元推理文庫)

陶子はうなずき、また目を閉じた。わたしの記憶力が弱いのは、きっと歯を舐めないからだ。中学以来、舐めるのを避けてきたからだ。記憶というのは本当は、脳で憶えるものなんかじゃなくて、三十二本の歯にやどっているのだ。後悔の歯に恨みの歯。これから抜かれる親しらずに舌を運んだ。舐めてみたが、これといって情景はうかばない。きっと些細なことばかり憶えてきた歯だ。抜かれたら、いっそう約束にルーズになってしまうかしら。でも仕方がない。ご飯が食べられないよりはいい。こうやってこまごましたことを切り捨てながら、人は生き延びていくんだろう。

黄昏抜歯

“「一冊だけ残せるなら、これ」”と作者自身が言ったという,全十五篇の短篇集.タイトルどおり,「綺譚」と呼ぶのにこれ以上ふさわしい作品集はないのではないか.技術と想像が,自分には及びもつかない高いレベルで結実しているというか.感想を言葉に落としこむのが私には難しいのだけど,読んでいてクラクラする感覚を味わった.
散歩中に出会った少女が車に轢かれ解体される様を描写する「天使解体」.昭和初期の探偵小説の趣「赤假面傅」.事故で失った右脚「脛骨」.犬派と兎派の血で血を洗う戦いの日々「聖戦の記録」.歯痛がもたらした幻想的な思考と情景「黄昏抜歯」.独特の文体で綴られる,ある母親の話「安珠の水」ゴッホの晩年の作品である「ドービニィの庭」を自宅に再現してほしいという依頼を受けた室内装飾家「ドービニィの庭で」.個人的に印象に残ったのはこのあたりの作品.