小川哲 『ユートロニカのこちら側』 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ユキは溜め息をついて静かに目を閉じた。すべてが嘘だったかのように、あたりは静寂に包まれていた。何もなかった。独裁政権も先進国同士の戦争も。唯一存在したのはちょっとした技術革新とそれに付随する塵芥だけだ。変化はその顔が見えないまま、そっと忍びこんできている。ビッグブラザーオーバーロードもルイ十六世もヒトラーサダム・フセインもいない。守るべき大衆と、倒すべき黒幕は等号で繋がっている。捨てるべき自由と、捨てるべき不自由も同様に。

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マイン社とサンフランシスコ市が共同運営する特別提携地区アガスティアリゾート.そこの住人は,すべての個人情報や行動履歴への無制限なアクセスに同意する代わりに,毎月支払われる基礎保険(パーミット・フィー)によって高水準の生活が保証される.超高度に情報化によって実現した理想都市ではしかしある変化が起こりつつあった.
第3回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作.「年収相当の金額を保証する代わりにすべての個人情報と行動履歴を無制限に差し出す契約をしたらひとはどうなるのか」,「その情報で技術的に何ができるのか」,「結果として社会はどう変わって,人間にどうフィードバックするのか」を章ごとに淡々と描いている.危険の排除,自由と不自由の意味,人間の意識の消失.やがて訪れるのは“永遠の静寂”(ユートロニカ).誰か黒幕がいるわけでなく,必然として世界が変わっていく.序盤は小説というより論文めいたところがあるのだけど,理詰めで静かに狂っていく様は恐ろしくて気持ち悪い.
どなたかも言っていたのだけど,『ハーモニー』や『PSYCHO-PASS』のラストの,その先を描いたような小説であると思う.「調和のとれた世界」のイメージするものが未だにピンと来ない私には,劇場版『ハーモニー』といいこれといい,答え合わせをしてくれるようで,個人的にすごく鮮やかなものに見えた.とても良かったです.