枯野瑛 『砂の上の1DK』 (スニーカー文庫)

「……アルジャーノン」

そいつは、頷いた。

「私は、アルジャーノン」

何度も、同じ言葉を繰り返している。

相変わらず表情らしい表情は見えないが、どことなく嬉しそうにも見えた。

いわゆる産業スパイで生計を立てている青年、江間宗史は、仕事で訪れた研究施設で昔なじみの大学生、真倉沙希未と六年ぶりに再会する。その直後、ふたりは施設への破壊工作(サボタージュ)に巻き込まれる。瀕死の重傷を負った沙希未を救ったのは、施設で研究されていた万能細胞、コル=ウアダエ。ただし、彼女は人間ではない何かになっていた。

産業スパイと、人間のようで人間ではない何者かとの逃亡生活。現代のスパイ小説であり、現代の『アルジャーノンに花束を』である。ノワールだかハードボイルドだか、そういったものへの憧れとロマンが存分に込められた小説だった。映画みたいだと自覚しながら銃を突きつけあうスパイに、人間を模倣して人間のようになっていく人間でないもの。なんとなく、この小説そのものに対する自己言及にもなっているのかなと思った。もちろん、フレーバーや名前を拾っただけの小説にはとどまっていない。作者の筆力もあって、非常に完成された現代の小説になっていた。とても良いものでした。

深見真 『二世界物語 世界最強の暗殺者と現代の高校生が入れ替わったら』 (エンターブレイン)

――あれは最高の世界であり、最悪の世界だった。

アトランテラに住まう殺し屋、アベル・グランジ。現代日本の高校生、久住海斗。ある日、目が覚めると、ふたりは人格が入れ替わっていた。

伝説の殺し屋と、いじめられっ子の高校生。二つの世界の間で、入れ替わってしまったふたりは、己の知らない世界で必死に生きようする。いじめへの復讐のため、身体を鍛え格闘技を身につける高校生(殺し屋)。徐々に殺しに慣れてゆく殺し屋(高校生男子)。交わるはずのなかったふたりの運命は交錯する。深見真久々の小説は、筋肉とバイオレンスとわかりやすいカタルシスに溢れた安心の作風。さくっと読める、楽しいエンターテイメントでした。

立川浦々 『公務員、中田忍の悪徳4』 (ガガガ文庫)

「俺たちは認めねばならない。この世界には他人の足を引っ張り、誰かの嫌がるさまを喜びとし、私利私欲を満たすことに執着する人間が、確かに存在すると。俺たちはその存在すらも受け入れ、法の下の平等に照らし、生きる権利を保障し続けねばならない。『保護受給者の中にも、頑張っている人や良い人はたくさんいる』などという当たり前の現実(トートロジー)に酔うのは、“善良な市民”にのみ許される無責任な娯楽だ。むしろ“そうでない”人間を生かし続けることこそ、“善良な市民”が放棄した、俺たちの責務だと考える」

異世界エルフことアリエルに、公的な身分証明書が降って湧いた。マイナンバー、保険証、住民基本台帳……。それは、公的機関のデータを自在に操ることができる超越的な監視者がいることを意味していた。

「……今の世界(わたしたち)は、かぐや姫を迎えられるほどに、美しいんでしょうか」

異世界エルフが、家庭や仕事のある大人たちが戦わなければならない敵、それは現実。福祉の視点から「世界」を捉え、異世界エルフが生きるにはどうすればいいのか。現実を前に、中田忍は限界を迎えつつあった。大きな転換点になりそうな予感がする第四巻。突拍子もない始まり方から、これ以上考えられないくらい地に脚のついた話作りをしている。それでいて、いい意味で着地点が見えない。この小説で「技術的特異点(シンギュラリティ)」なんて概念が出てくるとは思わなかった。とりあえず後輩一ノ瀬君のヒロイン力が爆発した巻、ということだけ覚えておくのでもいいかもしれない。本当、続きが待ち遠しい説になりました。

人間六度 『永遠のあなたと、死ぬ私の10の掟』 (メディアワークス文庫)

あなたの体は決して老いることはない。

でもあなたの心は、一緒に老いることができる。

平成の終わりごろ。大学生の真昼は、床無霧人という青年と出会い、あっという間に恋に落ちる。不老不死の身を持ち、数百年の時を生きてきた霧人は、付き合う条件として真昼に「十の掟」を課す。それから六十年の時間が経とうとしていた。

永遠に生きる青年と、普通に老いていく女性の、長きに渡る恋物語。……であるのは間違いないのだけど、変な小説だった……。不死身の人間たちが作ってきたもうひとつの社会、そして人間が不老不死になる条件とは。なんでもかんでも詰め込むせいか、思わぬ方向に話がドライブするんだけど、着地点は比較的穏当なところに落ち着く。この不思議な読み口が作家性というやつなのかもしれない。

『スター・シェイカー』の作者が担当編集に「お前らしさを見せてくれ!」と言われて書いた小説がこれなのは非常に納得できる。『スター・シェイカー』あるいは『きみは雪を見ることができない』が気に入ったのであれば、ぜひ読んでみてもらいたい。繰り返すけど、変な小説でした。



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町屋良平 『坂下あたると、しじょうの宇宙』 (集英社)

おれの詩は異物か? おれのポエジーは不純?

お前の混じりっけのない沈黙に比べたら、不純なんだろうな。

だったらおれは、おれのやりかたで純粋に詩になってやる。お前がいま、文学になっているのなら。

「お前に見せてやるよ。本物の詩情を、おれがお前に見せてやるよって。それまではそうやって、黙っていやがれ」

坂下あたるは、新人賞の最終候補に残るような文学の才能を持っていた。その親友、毅は、こっそり詩を書いていたが、まったく評価されていなかった。嫉妬と劣等感に苛まつつ、高校生活を送っていた彼らの日常は、文学の投稿サイトに突如現れたなりすましアカウントに大きく狂わされてゆく。

芥川賞作家が描く、ふたりの高校生の文学と青春。Midjourneyだmimicだとインターネットの盛り上がりに乗っかって積読を崩した次第。生き生きとした高校生らしい言葉遣いで漢字を開いたテキストには、不思議な読みやすさと、ふわふわした感覚が同居している。才能はAIに勝てるのか、才能は誰かを救えるのか、創作に利用されるAIは、果たしてこの作品のような流れをたどるのか……というのは実は本筋ではないのかもしれない。良い青春小説だと思います。