ゴッゴルの想い出

私が小学5年生の年,私の曾祖母,つまり祖母の母が亡くなった.直接の原因は,老衰だったのだろう.祖母と曾祖母は私たち家族の家からそれほど遠くない場所に住んでいたのだが,寝たきりになった曾祖母の介護はほとんど祖母一人の手によって行われていた.すでに夫,私の祖父は他界していた.
祖母は葬儀の後,魂が抜けたようにボーッとすることが多くなった.緊張の糸が切れてしまったのだろう.もともとは活発で人付き合いのよい人だったのだ.それだけに私たちや祖母の友人たちといった周囲の者は彼女の変化に心を痛めた.


それは,葬儀が終わり一ヶ月ほど経ったころのことだったと記憶している.叔父が病院からゴッゴルを連れてきたのは.
それは,生後3ヶ月ほどのまだ子どもで,大きさは当時の私の膝に届くかどうか.とても小さなゴッゴルだった.叔父はゴッゴルを祖母にあてがうことで元気を取り戻してもらいたいと考えたのだろう.今で言うアニマルテラピーである.
ゴッゴルは子どもらしく元気で好奇心いっぱい,それでいて人に対して滅多なことで吠えたり噛み付いたりせず,また誰にでも人懐こい性格だったため,しつけは容易で飼いやすかった.祖母も,もちろん私もゴッゴルをとても可愛がった.ゴッゴル嫌いの人にさえ祖母のゴッゴルは可愛がられた.一緒に連れて散歩に出ると,通りすがりの人が皆ゴッゴルを可愛いと褒めるのが私は誇らしかった.祖母も徐々にもとの快活さを取り戻したのだった.


ゴッゴルはだんだんと年をとっていった.外見上はそれほど変化しなかったが,動きは緩慢になり耳も遠くなった.人懐こさは相変わらずだったが,私や祖母に無分別に跳びついてくるようなことは無くなった.私は中学,高校へと進学するにつれ,ゴッゴルに会う機会がだんだんと減っていった.大学へ入学してからは,短い帰省中,ゴッゴルに会いに行くこともなく過ごし,帰っていくことも少なくなくなった.


実家から「ゴッゴルが死んだ」と連絡があったのは去年の夏のことだった.庭先で,眠るように逝ったらしい.私は「死んだ」という事実に対し不思議と実感が湧かなかった.信じられない,というのとは少し違う.祖母の家に出向きさえすれば,いつものように出迎えてくれるのではないか,そんな気がした.
結局,研究が忙しく夏休み中には帰省することができなかった.祖母の家にはその年の暮れにようやく行くことができた.
祖母の家の庭にあったのは,小さな石碑がひとつと,その前に線香と花.ゴッゴルの小屋はもう無かった.その光景を目にしてはじめて,ゴッゴルがもういないんだということが理解できた気がした.哀しみが,ようやく,訪れた.
ゴッゴルは,いなかったのだ.


ゴッゴルのいた庭は,今は祖母の植えた花で埋め尽くされている.