吉田さん(仮名)の赤ちゃんはときどき一人で近所の海まで出かける.まだ生後一年なので移動手段ははいはいだ.海は近いので赤ん坊の手足でも1分とかからない.
その海には,海ガメの集まるポイントがあった.岩場に上がってきた海ガメたちがよく甲羅干しをしているのだ.吉田さんちの赤ちゃんの目的地はそこだった.
吉田さんちの赤ちゃんはカメが大好きだ.赤ちゃんは休んでいるカメの甲羅を叩いたりその上に乗ったりして遊んだ.カメの表情を窺い知ることなどは無論できなかったが,海ガメのほうも赤ちゃんを背に乗せたまま海の上を滑るように泳いでみせる(赤ちゃんは楽しそうに笑っていたがたまに波をかぶって泣き出すこともあった)こともあり,傍から見るとカメと赤ちゃんはとても仲がよさそうに見えた.
そんな彼らの交流は地域でも有名なものとなり,次第に赤ちゃんとカメのいる海にひとが,ときにはTVカメラまでが押し寄せるようになった.赤ちゃんは周囲の目など気にはしなかったのだが,海ガメにとっては喜ばしいことではなかったのだろう.見物客の数に反比例するようにその海からは海ガメの姿は消えてゆき,そして海ガメが姿を見せなくなるにつれやってくる人の数も減っていった.今ではもう,この海には誰もいない.何もいない.
赤ちゃんは今日も海へ出かける.友だちだったカメたちはもういない.赤ちゃんがあの岩場で何をしているのか,知っている人は誰もいない.