フィリップ・K・ディック/小尾芙佐訳 『火星のタイム・スリップ』 (ハヤカワ文庫SF)

火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)

火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)

そのとき幻想が──それを幻想と呼ぶならばだが──あらわれたのだ。人事部長が別の姿で見えた。彼は死んでいた。
皮膚の下に骨格が見えた。骨は、きれいな銅線でつなぎあわされている。しなびた内臓は、人工の肝臓や心臓や肺におきかえられている。すべてがプラスチックとスチールでできており、見事に動いてはいるが、それには生命というものがまったく欠けていた。相手の声は、テープからスピーカーとアンプを通して聞こえてきた。

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火星植民地に暮らす移民たちは,乏しい物資と水不足に常に悩む苛烈な生活を送っていた.水利労組組合長アーニイ・コットはその立場ゆえに絶大な権力をがっちり握っていたが,地球の投機家によってその権力を危うくされつつあった.
自閉症のため,他人とコミュニケーションをとることが出来ないマンフレッドを中心とした火星植民地の権力争い.マンフレッドを間に挟み,投機家の息子で分裂病持ちの修理屋ジャック・ボーレンとアーニイ・コットが火花を散らす.章が変わるごとに,不気味な描写を少しずつ増やしながら,同じ場面を何度も繰り返し描く.頻出する謎の単語「ガブル」,「ガビッシュ」が分かってから読み返すと,意味が掴み取れるようになるのがいい感じ.ってかミスリード誘ってたのかしら? 「ガブル」のほか,マンフレッドの見ている世界,火星の原住民ブリークマンたちなど,ビジュアルに訴える描写が多めだと思うのだけど,古びた感じはさほどでもなく読める.ストーリーラインはシンプルだけど,火星の風景が面白い.「精神病」の定義(扱い)がいまひとつよく分からなかったのは時代が違うせいなのか,単に私が読み取れてなかったせいなのか.