インドラ・シンハ/谷崎由依訳 『アニマルズ・ピープル』 (早川書房)

アニマルズ・ピープル

アニマルズ・ピープル

おれの物語は、あの晩から始まる。何ひとつ覚えちゃいないけど、おれはそこにいたし、そこから始めなくちゃならない。あの晩みたいなでかい事件が起こると、時間は二つに分断される。“それ以前”と“それ以後”に。“それ以前”の時間は、ばらばらになって夢のなかへと砕け散った。そして夢は闇へ溶けた。それがこの街だ。誰もがカウフプールを知ってる。だけどあの晩、“以前”のことは、誰ひとりとして知らない。そしておれは、背中が曲がっちまう前のことは何にも覚えていないんだ。フランシかあちゃんは話したもんさ、ほんとの母親みたいに得意げに、カンパニの工場の裏手にある湖でおれが楽しそうに泳いでいたって──「こうしてまっすぐ飛び込んで、腕と脚とを一直線に伸ばして泳いだのよ」。そんなふうに言われると、ものすごく悲しくなるか、怒り狂うかのどっちかだ。おれはいまでも、水底深くまっすぐに潜っていく夢を見てる。ねじ曲がったおれの影を、背後の岸辺に置き去って。

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20 年前,「カンパニ」の工場が起こした汚染事故の影響で,背骨が大きく曲がった少年は四本の脚でなければ歩けなくなった.孤児だった彼は「動物」と名乗り,スラムでの生活を送っていた.この物語は,「動物」が一連のカセットテープにヒンディー語で語ったものである.
「おれの名は動物。かつては人間だった」.ボーパールの化学工場事故をほぼそのままモデルとする物語.てっきり差別との戦いの物語であるのかと思いきや,まったくそんなことはなく,むしろからっとしている.主人公「動物」の目から描かれるスラムでの生活は,力強さとユーモアを兼ね備えたもの.貧しくとも汚らしくとも苦しくとも,ルンドを握りながらたくましく生きている.訴訟に応じないアムリカのカンパニや腐った政治家を相手に戦う英雄.事故で歌えなくなった大歌手.アムリカから来た女医.いずれも一筋縄では行かぬ登場人物たちも非常に魅力的.
さらに特筆すべきは景色や情景描写の美しさ.あとがきで訳者も触れているけれど,売春宿のシーンで描かれる○○○はもう一生忘れられそうにないですわ.「動物」の語りのはずなのに主観人物が入れ替わる点や終盤の展開など,気になる点も正直ないわけではないのだけど,それを置いても読んでよかったです.