小田雅久仁 『本にだって雄と雌があります』 (新潮社)

本にだって雄と雌があります

本にだって雄と雌があります

「おい、ひろぼん。本いうんはな、読めば読むほど知らんことが増えていくんや。どいつもこいつもおのれの脳味噌を肥えさそう思て知識を喰らうんやろうけど、ほんまは書物のほうが人間の脳味噌を喰らうんや。いや、脳味噌だけやないで。魂ごと喰らうんや。せやから言うてな、わしみたいにここまで来てまうと、もう読むのをやめるわけにはいかん。マグロと一緒や。ひろぼん、知ってるか。マグロは泳ぐんやめたらな、息できんようなって死んでしまうんやでェ。せやから、わしみたいな学者も字ィ読むんやめたらなあ、ううっ、胸が苦しい……ひろぼん、そこの本取ってくれ。せや、その本や。早うわしに字ィ読ましてくれ! 頼む! 早う! ええい、わしを殺す気ィか!」

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あまり知られていないことだが,本にも雄と雌がある.であるからして,棚の本だってことを致すし、勝手に増えることだってあるのである.語り手である私の祖父,深井與次郎はその勝手に増えた本,幻書の蒐集家であった.
自分の息子に向けて語りかけるように書かれた手記,という体裁で書かれる祖父と祖母と書物の関係についての物語.祖父や祖母との子どもの頃の思い出や,祖父の遺した日記からふたりの馴れ初め,戦争での出来事などを,時系列もバラバラに思いつくまま語ってゆく.孫の目から語られる與次郎とミキは,暖かいだけでなく芯の通った人物として描かれており,なんというか,こんな爺ちゃん婆ちゃんすごくいいなあ.関西風味の,優しくてちょっとくどいくらいのユーモアが全体にあふれており,すっと胸に入ってくる.なにかひとこと余計なことを言わずにいられない語り手の性格にもくすっとさせられ,読んでいくうち,いつの間にかどっぷりと物語に浸ってしまう.與次郎の最期の場面では,電車内にも関わらず目が腫れてしまった.タイトルはこんなだけど,ことさらに本を強調するのではなく,祖父と祖母,自分,そして息子という流れに寄り添うように本がある,というバランスが良いんだよね.自由意志や円環の理(?)に触れるラストはちょっと首を傾げるところではあるけれど,宇宙の外側を向いた本棚,というイメージにはゾクッとさせられた.とても優しくて,暖かい気持ちになれる,素晴らしいファンタジーでした.