僕は涙を流した。泣きながら、母さんのお腹に抱きつき、言った。
「痛いでしょう……お母さん、痛いでしょう……」
お腹から聞こえるくぐもった音で、母さんも泣いているのがわかった。首の後ろに、冷たい涙のしずくが落ちた。
「痛くないんだよ……痛くないんだよ……」
そう言って、母さんは何度か、からだをよじった。かなしい動きだった。
小学三年生の少年、三枝八雲は、全身が塩に変わり崩れてゆく難病、「塩化病」にかかった母を見舞っていた。そんなある日、八雲は天才的なピアノの才能を持つ少女、五十嵐揺月と出会う。母を喪って小説を書く八雲と、世界的なピアニストを母に持つ揺月の関係は、時間とともに変化してゆく。
あくまでも青春恋愛小説の体裁を取りつつ、「物語」や「物語化」という概念に真っ向から向き合い、その役割と物語という形で、明確に再帰的に言及する。実在のピアニスト(故人で何度も言及される田中希代子、直接サインを貰うマルタ・アルゲリッチ他)や、主人公の親友が所属する聖光学院の甲子園のスコア(調べたら2012年から2014年までそのままだった)、東日本大震災といった現実のタイムラインを、不穏なユーモアや醜い人間関係、SF的に少し進んだテクノロジーまでまぜこぜにして虚構にまるっと取り込む。あまりに大胆な手口を取ることで、物語そのものを虚実曖昧な、幻想的ですらある立ち位置に置くことに成功していた気がする。最近読んだ本だと小川哲に近い手法かもしれない。
しかしその作業も、今にして思えば、祈りの時間だったように思う。大砲のままでは、誰にも伝わらない。花束のなかに隠さなければならない。そのための花を、ひたすら拾い集めていたのだ。拾い集めるのが、僕の人生なのだ。
フレデリック・ショパン、練習曲作品10第3番『別れの歌』から始まる涙の物語。第16回小学館ライトノベル大賞、大賞受賞作品。どこか自己言及的な雰囲気を漂わせながら、「物語」について考え抜いた姿勢が見える。「花々のあいだに大砲が隠されている」というシューマンのショパン評をそのまま体現してみせたかような、美しくも不穏な傑作だと思いました。
――これでいい。きっと、何かを発信するということは、消費されることと隣り合わせなのだ。大事な思いがいつも届けたい相手だけに伝わるわけがない、途中で余計な金を生み出したり、心ない誰かに唾を吐きかけられたりもするだろう。
けれどそれでいい。大砲を隠した花束のように、消費されることを半分受け入れながら遠くまで飛んでいくといい。そして誰かが困難や絶望に立ち向かうための武器になればいい。